人口墓場の墓碑銘を消しゴムで消す
国立社会保障・人口問題研究所 のHPを見て。
そこにあった、人口ピラミッドの推移が写されているアニメーション。
ピラミッドから壺型へ、壺型から段々と全体が細くなって……消えてしまう(というところまではいかないけれども)、流れを、140年もの時の流れを、僅か5秒弱で目にすることができる。
折り重ねられた人口が、下から上へ向かって立ち昇っていくさまが見える。
まるで吹き上げられる煙のように。
いつかどこかで目にした「きのこ雲」のように。
いや、うそ、うそ。誇張。この目がおかしいだけなので気にしないこと。
人の命の積み重ね、歳の加え、より長く、永く。
それがあたかも天へ上って消えていくようにみえるのはきれいだ。
長い時を地に過ごし、やがて空に吸い込まれていく…
人が死んだら、そのとき何かが飛んで行ってほしいのだ。
地面に埋め込まれたら、なんだか重ったるい。
空の向こうに飛ばせれば、どこか遠くへやってしまえるが、
足元に埋めたらきっとすぐ……あるいは近いうちに這い出てくるにちがいない。
という思いが捨てきれないんだもの。
人口ピラミッド、ピラミッドも考えてみれば墓だ。
王あるいは神たるファラオのための墓。復活の祭壇。
生きた無数の奴隷たちが血反吐をぶちまけながら作らされた(のかしら?)、
生の活動が打ち建てた、巨大なる死の建築。
ピラミッド型。人口。
壺型。当然これは、骨壺のことに違いない。きっとそうに決まっているさ。
個人の、個体の人間の、終の棲み処。
ばらばらの骨が、二度と組み立てられることのないパズルの集積として、
詰められるハコ。骨壺。
こうしてみると、人間はやはり死ぬために、生きているのだと。
人口ピラミッドのねらいが徐々に見えてきた。
人の山で人の墓をつくる。じつに合理的な発想だ。
生きている人の集積で墓のイメージが形成されている!
ならば、人口そのものが消えていき、ピラミッドも必然、
その根から立ち消えていくのも、いずれ、不可避のことなのだろうか。
死ぬのにもう飽き飽きして、生きることを費やして、
生まれることを少しずつやめていくことで、
ようやく死ぬことをやめられる。
この種はそういう道を選んだのかもしれない。
もしくはその道を辿り始めたのかも。
どうせなら、道中楽しく、歩きたいものですね。
煩悩の犬は追えども去らず
燃え上がって、燃え尽きて、灰になって、風が吹いて、暗闇に吸い込まれて、消え入ってしまうものがみたい。
掌の中で、崩れて、砂になって、零れて、おちていくものがみたい。
最期の一滴が、弱弱しく震え、乾き、周りの空気とおなじになるものがみたい。
もしかしたら、あるいは、もうすぐ、みれるときがくるのかもしれない。
もしかしたら、あるいは、もうすぐ、みられるときがくるのかもしれない。
意味のない賭け。
今まででいちばん眩しい、目の潰れるような光が、脳髄までつらぬいて、
かたちあるものを、ボロボロと崩れ去る、砂・埃へと変えて、
ただそれを、壁面に、網膜に、脳裡に、焼き付く影に、うつしてしまう。
人という物の怪の営為の結晶、文化・文明・かたちあるもの、すべてが、眩しい無数の光によって、塗り潰され、暗く冷たく焦げ臭く乾いた黒い影になる。
影の淵を指でなぞれば、そのかたちを思い起こすことができるのだろうか。
文化・文明、それは形あるものではない。
いろいろの建築、絵画、彫刻、そのたもろもろの物品、果てはその様式にいたるまで…
そのものたちは、文化・文明そのものではない。
文化・文明は、そのものたちを作り上げた/作り上げる「力」なのだ。
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外で虫が鳴いている。
目に見えないがきれいな音だ。
今まさに鳴いている声、初めて聞く音色なのに、
いつかどこかで聞いたことがあるような、安らぎを感じさせる。
音の影は音と音の間に落とされる音なのか。
ぴたりとついてくる影は追い越すこともひきはなすこともできず、
ときには、影に私がぴたりとついていく。
とうぜん、追い越すこともひきはなすこともできない。
ときに私の影は私より大きくなり、私より小さくなり、
ときに私は私の影より大きくなり、影より小さくなる。
そこにかたちはあるのだろうか。
どうでもいいんだが、どうでもよくはない。
慰め、
責任、
未来、
声。
明日、
働く、
苦しみ、
別れ。
無意味、
眠り、
傘、
黒。
逃げない獲物は捕まえやすい
飛び込んできたものを逃がさないことが肝要だ。
動きを縛る糸に絡みつかせてしまうのがいい。
もがけばもがくほどにそのあがきが無駄となり、
次第にもがくことすらもできなくなる。
糸とその身が奇しくも結ばれ合い、あたかも元から同じ一つであったかのように、
纏わりついて離れないのではなく、「そのもの」であるから分かれ得ないのだ。
「いやだ」と言うべき時にでも、そうは言えなくすればいい。
自ら「はい」という希望にかけて、網をめぐらせておくことだ。
食虫植物と蝙蝠との出逢いの写真について
世界報道写真展で見た、一番心に残った写真は、
ウツボカズラに似た食虫植物のひと房(捕虫袋)と、一匹の翼を広げて飛ぶコウモリがフレームの中に捉えられた作品である。
この種のコウモリは、食虫植物の捕虫袋の中を寝床にするらしく、
この写真では今まさにコウモリが彼のベッドへと降り立とうとする、
その一瞬を写している。
背景は暗闇で、食虫植物と一匹のコウモリが左右で対称に配置され、まるで向き合っているかのような雰囲気だ(むろん、植物に「向き合う」ような正面があればの話だが)。
この写真で呈示された世界は、何といったらいいか、それだけで充足していた。
虚空の中で、ただ食虫植物とコウモリが向き合っている。
それだけで世界が出来上がっていた。
片や自らは動きはしない植物と、翼を大きく翻して飛んでいるコウモリ。
片や睡眠をとるために舞い降りたコウモリと、眠らない食虫植物。
カメラによって固定された動と静。
被写体は眠らず、そして目覚めることもない。
無限の虚空のなかで、異なる二者が出逢い、向き合う。
それだけで世界が出来上がってしまっているのだ。
その無限の虚空の何処かが、見も知らぬ誰かの手で目の前に引き出され、
いま、ここで、僕が、それを、観ている。
暗闇と、植物と、コウモリ。それだけで僕は充たされるようだった。
僕にとって良かったのは、
食虫植物が綺麗な花などではなく、
コウモリが可愛らしい小鳥などではなかったことだと思う。
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コウモリが食虫植物の捕虫袋の中を寝床にする、という説明文に、
では植物は寝床にされっぱなしなのかというと、そうではなく、
落ちてくるコウモリの糞を栄養にしているのだ、ということも書かれていた。
ちなみに、コウモリは捕虫袋の中の消化液では別に溶かされはしないらしい。
この共生の在り方も、僕にとっては憧れるものである。
睡眠を必要としない植物が安全な寝床をコウモリに提供し、
コウモリが不要になって排泄した糞を植物が栄養の足しにする。
この二種は、異なるからこそ互いを利し、また利されるのである。
くわえて、この二つは当然ながら互いのためにこうしたことをしているわけではない。
勝手に寝床にし、寝床にされ、勝手に排泄し、また勝手に栄養にしているのである。
結果的に互いの行動が、互いにとって利益を生んでいるに過ぎない。
だが、だからこそこの二種は寄り添えているのだ。
互いのため、相方のため、自らが相対するもう一者のため、という思考は、
「お互い」という閉じた関係の中で同語反復的な螺旋を形成する危険も含む。
そのとき、「お互い」も、お互いを構成する片割れのひとつずつも、
もはや何なのかがわからなくなってしまう。
なぜなら最初から、互いは互いのためにあるわけではないのだから。
互いのために行なうわけではないことが、結果的に互いの利になる。
自分にとってのそういう人と、そういう人にとっての自分が、
もし寄り添うことができたなら。
そんなことをぼんやりと、子供のように夢想する。
~について
罪の価は死である。
キリストの死によって、罪びとの罪は贖われることとなった。
原罪、死すべき定めを備えて生まれ落ちた命。
生命には死の可能性が内包されている。
生命を生かすためには他の生命の犠牲が必要である。
時代は不幸なしに越えることはできないのか?
幸せは犠牲なしに得ることはできないのか?
なによりも価値のある、大切な命が、
他の命を糧にしなければ保つことすらできないという
現実、矛盾。
生―死。
序列、対立。
声、聞こえない叫び。
芽吹いては枯れ行く。
執着に執着し、執着しない事にも執着する。
只管、遠いのか。
この手にないだけでそれは近くにあるのか。
月は遠いが、地球からは付かず、離れず。
指を指したこの先に、果たして月はあるのだろうか。
宇宙、虚空。
三間四方の舞台の上を、無限の虚空に繋げた世阿弥。
面はおもてで裏はなし。
さかひ、おもひ、ゆめ、まぼろし。
あるともいえぬし、ないともいえぬ。
希望、絶望、空、地平。
遠くへ行こう、遠くへ行こう。遠くへ…