ジョロウグモ
昨日はジョロウグモがせっせと糸を紡いで巣を作っていた。
秋の空の女王。
身近でいちばん美しい蜘蛛、だと僕は思っている。
ジョロウグモの巣は、いわゆる平面的で円形に放射した形の網だけではなく、いろいろ特殊な部分が入り組んでいて、少し複雑なドームのような形をしている。全体像を見ると、下部が広い馬蹄形をしているそうだ。
巣を作って糸を張っている時も、単純に引っ張っていくのではなくて、時おり巣の中央に糸をひっかけながら、美しく伸びた黒い脚を巧みに操って特殊な構造体を形成していく。
一度機会があれば、ジョロウグモに限らず蜘蛛の巣作りの様子をその目で見ると好い。
せっせ、せっせと糸を引っ張る蜘蛛の様子は、殊のほか愛らしいものだ。
そしてまた、蜘蛛の巣作りは驚異的だ。
最終的に蜘蛛自身の体長の十何倍、何十倍もの大きさの構造体を作り上げるのだから。
それは空中に設えられ、しかも自らの体のうちで編み出した糸が素材となる。
「巣をつくる」ということにおいて、これほど興味深い生物はあまりいない。
芸術的だ、と言ってもいい。
ジョロウグモの巣なんて、一部は黄色の糸になってるから、秋の日差しがあたるとキラキラ金色に輝いて、ジョロウグモ自身の赤と黄と黒の体色と相まって、ただもう美しいの一言。
彼らの巣が、いろいろの形をするのも、それが何かの「あいだ」に作られることが多いからだ。木々の間、枝枝の間などにとどまらず、人間が作った柱の間、柵の間、時には木と柱の間に、または電灯やバス停の頼りない屋根のすぐ下に張っていたりする。
「あいだ」の、「糸」の芸術だ。それは「つなぐ」わけではないけれども、なにかの「あいだ」になければつくられない。空中には出現しない。
何もない空間ではないけれども、人が無用の空間としているような空き、隙間に、ほいっと網を張っているのだ。こんなに面白いことがあるだろうか、別に蜘蛛と人間はお互いに共存しているわけでも敵対しているわけでもないが、なんとなく隙をつかれているような感じがするじゃないか。
付け加えるべきは、僕のような不能で無能の人間からすると素晴らしいことなのだが、
これらの芸術的行為をあらゆる蜘蛛が種の才能として保持しているということだ。
(※もちろん、巣をつくるタイプの蜘蛛の話だ。ハエ取りグモタイプはハエ取りグモタイプで、その跳躍の凄まじさ、仕草の愛らしさなど素晴らしいところは多い。)
人間だって自分より何倍も大きいもの、美しいものをつくることはできる。
だがそれは大勢の人間の力や、デザイン・設計をする能力のある限られた者たちのなし得た成果だ。僕のような人間、あるいは大勢の人間が作れるものではない。
だけれども蜘蛛は、どんな蜘蛛でも、その能力を生まれ持ってくるのだ。
しかるべき成長、場所、時間、運があればどんな蜘蛛でも巣をつくる。
人間にはできないことだ、それが素晴らしい。
少し道を歩けば、そんな驚異の営為を、そう難しくなく目にすることができる。
それも素晴らしいことだ。
秋の日の散歩、ふと足を止めて、気に入った蜘蛛を見つめてみるのもいいだろう。
蜘蛛はあなたを待ってはいないが、いつでもそこで待っているのだから。