絡新婦の爪先

いちばん書きやすいところにあった日記のようなもの。

「価値」をさげよう

日本人の価値観、美しい心、和を以て貴しとなす規範、何よりも「努力すれば成功する」などと、無責任にも結び付けられてあたかも意味や価値を備えたかのような言葉の意味や価値を破砕しましょう。

 

企業競争の末に手に入る「新しいもの」でわれわれは幸せになったでしょうか。

新しいヴァージョンのスマートフォンは、互換性も企業サポートもない無用のものを、凄まじい速さで過去に積み上げていったにすぎないのではないですか。

自由競争による経済成長、聞こえのいい言葉を添えようとも実情はそんなものです。

それを進歩というのですか、革新というのですか、成長というのですか。

 

そんなことのために自己の幸せを犠牲にすることも、ましてや過労死してしまうことも、非情に滑稽で哀れなものですが、残念なことに決して珍しくない世の中に……

否、決して珍しくないのだということが容易に分かる世の中になってきてしまいました。

もう誰にも人生における価値も意味も幸せもわからなくなっているのです。

だから生きる糧を得るためという「大義名分」のもとに自らの人生を費やし、

「努力と成功」を結びつけた安易な救いの道に希望をかけ、働きすぎているのです。

あるいは、十全に働いているわけでもないのに、働かせすぎているのです。

ほんとのところは働いているかもよく分かっていないのに、

働いているということにして、それを「信用」することで、

かろうじて「社会」、「社会人」、はては「日本社会」というものを

誰に言い訳するためなのか、取り繕っているのです。

 

そして、その取り急ぎの価値と意味を保つために、「若者」や「真面目な人」がごくごく真剣に張りぼての社会に殉じ、大真面目に社会的価値から外れる人びとを排斥し、他の価値を引き下げることであたかも自らの属する価値が上位のものであるかのように演出することで、その価値体系を強固にしていくのです。

「努力と成功」が尊ばれ、「怠惰と失敗」が忌避されるのはそのためです。

そもそもそんな言葉に容易に還元されてしまうほど、人の行いというのは薄っぺらくはないのですけれど。

 

この価値は非情に強固に見えます。

誰もが共有する前提で、見上げるほどに大きくて、人一人が立ち向かっても打ち砕かれるような気がしてきます。

でも本当はこの世界に「誰もが共有する前提」などはありませんし、目で見ることのできる「価値」も、大きさを比べ得る「意味」も存在しはしないのです。

立ち向かっても人を打ち砕くのは価値ではなく、価値を崩されては困ると感じているある人間なのです。そういう人間が、「あることにしている」にすぎないのです。

むしろこの価値に則った、すなわち価値基準で判断可能な行いをし続けていくことが、この価値をより強固なものにしていくのです。

 

「そういうものだからしかたない」と口にはしますが、「そういうことになっているからしかたないということしかできない」が正しいのではないでしょうか。おそらく言ってる方も気づいているとは思いますが。

 

そうまでして実際のところ共有している嘘を必死になって守ってきた理由は、ひとえに共働することで人間として生きていくためでした。人間として生きていくために、いくらかの人間を死に至らしめたり、不遇を押し付けてきたのです。

そればかりではなく、不安の人々を価値の中に組みこみ、排斥される人ばかりでなく、

その価値に必死でしがみつく善良な人々をも少しずつ蝕んでいったのです。

 

努力すれば成功する。

身を粉にすれば報いがある。

働いて夢をかなえる。

 

いろいろの景気のいい言葉が使われました。

それは価値が価値それ自体を強固にするための価値による価値づけでしかないのに、です。価値に奉仕する人の行いを価値が価値づけるのです。

人は幸せになるのではなく、価値が人の幸せを定義づけるのです。

だから、価値のために奉仕した人は価値と一体となって、価値のために生き、

価値がなくては生きれはしないおのれのために上の言葉を吐くことになります。

「価値」はほんとうはありはしないのに、です。

 

それでも、人を生かすための価値ならよかった。

しかし、もともと人々が取り繕ってきたほころびが、

亀裂がだんだんと見え始めてきたのです。思っていたよりも多くの人々に。

そして同時に、それを必死になって取り繕う人間の数すら足りなくなってきてしまいました。

もう価値を保つためには、さらに人を働かせるしかありません。

帰結は、誰もが疲労し、挙句に過労死する社会です。

そうなってすら、それが生きる価値だと信じてその価値に殉じる限りは、

価値は生き延び続けることになります。人を死に体にすることで。

疲れた人は、いよいよこの価値のあたえる景気のいい言葉にすがるしかないように思えてきてしまいます。その先にはなにもありはしないのに、です。

 

この価値に「伝統」などはありません。

この価値が決める「過去の積み重ね」と「未来への展望」と奉仕する現在しかありません。

それに付き合うのはもうやめてもいいのではないでしょうか。

生かすためのものが殺しはじめたのです、本末転倒でしょう。

価値がなくても人は生きていけます。

価値に付き合って死ぬことはありません。

 

何か新しいものを見つけるために、今の価値は壊れるがままにしてしまいましょう。

 

「努力すれば成功する」という耳に聞こえのいい言葉を信じるふりをするのはやめましょう。いまは「努力すれば死んでしまう」社会です。

 

「艱難辛苦を経れば幸せが待っている」などと思うのは、人を喜ばす物語の筋書きに毒されすぎた安易な考え方にすぎません。本当の「艱難辛苦を経て」しまえばたいていの人は死ぬか大きく傷ついてしまいます。当たり前のことですが。

 

なんのための「粉骨砕身」でしょうか? 過剰な表現のために本当に「身を削り」、会社に尽くして、ただその会社、社会の決めた価値のもたらす恵沢を享受する自分ではないもののために…幸せにも不幸せにもなり得、いろいろの喜怒哀楽を引き受けることのできるかけがえのない人生を手放すなんて、こんなに滑稽で悲しいことがあるでしょうか。

 

立ち止まってもいいんです。

ボロボロの価値が決めた早い遅いに気を取られることのほうが、

もっと大いなる時間の流れから外れてしまった、

本当の意味での「時間の無駄」なのかもしれないじゃありませんか。

 

待つことも大事なことですよ。

 

絡新婦