絡新婦の爪先

いちばん書きやすいところにあった日記のようなもの。

『きのこ漫画名作選』 感想② ~「キノコってちょっとドキドキするけど」~

 

tokkannnonikki.hatenablog.com

 

これの続きである。

今回感想を書くラインナップは以下の三作品。()内はアンソロ収録前の出典。

 

つげ義春「初茸がり」(『ねじ式 異色傑作選1』)

長崎訓子夢野久作 きのこ会議」(『Ebony and Irony 短編漫画集』)

・青井秋「爪先に光路図 前編」(『爪先に光路図』)

 

まぁこれからも三つずつのんびりと書いていこうと思う。

書くのは大事なことだから。

 

 

つげ義春「初茸がり」(3-10)

 

ねじ式』で有名なつげ義春の作品だ。

なんとかクラゲに刺されて腕を抑えているシーンの絵は、

きっと誰でも見たことがあるに違いない。※メメクラゲ

 

この作品は、「きのこの出てこないきのこ漫画」である。

 

雨の降る夕方、山の麓の日本家屋で、

優しそうなおじいちゃんが孫の正太に

「あしたは初茸がりに行こう」と声をかける。

正太は楽しみで楽しみでワクワクするあまり眠れず、

大きな古時計の時を刻む音が気になって仕方がない。

そうして夜が更けていき…………

朝。おじいちゃんが気持ちよく目覚めると、正太の姿がない。

布団をのけても、名前を呼んでも正太がいない。

正太は大きな古時計の中に入り、振り子をその小さな体で止めたまま、

「グー、グー」と寝息を立てて眠っているのであった。

 

と、いうのがあらすじである。

要するに、この物語は「初茸がり」に行く前夜の話であり、

きのこが出てこない、きのこが「これから」出てくる、

「きのこ前」の漫画なのである。

きのこは直接描かれていないが、これほど「きのこ漫画集」の冒頭を飾るのに

ふさわしい作品は他にないだろう。

 

誰しも子供のころ、明日が楽しみでどうにも眠れない経験をしたことがあるだろう。

もしかしたら、大人になった今も、不安のために眠れない夜を過ごすことも

あるかもしれないが……

それはともかく、初茸がりに行くことを楽しみにして、うれしくて眠れない正太は、

まるでこれから多くのきのこ漫画を読むことを心待ちにしている我々読者のようだ。

しかし明日のために眠ることを、現実の時を休みなく刻み伝える時計が邪魔してくる。

ゆっくりと眠るためには、この時計を止めなくてはいけないのだ。

正太は自ら時計の中に入って、際限なく聞こえてくるような時計の音を止め、

無事に夢の世界へと入っていった。

そうしたらもう、「オトナ」であるおじいちゃんに、正太を見つけることはできない。

正太は目を閉じて眠りながら、初茸を採る楽しい夢でも見ているのだろうか。

もはや時計の音は鳴り止んで、正太のいびきが響くだけだ。

 

きのこ漫画を読むあなたも私も、正太のように、現実の時計を止めて、

ちょっとしたわくわくとともに、夢のようなきのこ漫画の世界に入っていきませんか?

と誘ってきているみたいに思えてはこないだろうか。

 

ひょっとすると、そういう世界の中でしか「きのこ」とは出会えないのかもしれない。

 

 

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(7ページ。雨がやんだ夜遅くの正太)

 

もう今の時代、ほとんどの日本人は住んでいないのでは、と思えるタイプの日本家屋。

ぼろくて、暗くて、じめじめしているけれど、なぜだか落ち着く空間だ。

ひどく心の片隅のノスタルジィをつついてくる。

不思議だね、そういうところに暮らしていたわけでもないのに……。

ともかく、そういう雰囲気も良く描かれている作品だと思う。

 

 

長崎訓子夢野久作 きのこ会議」(12-20)

こちらは『ドグラ・マグラ』で有名な夢野久作の『きのこ会議』の漫画化作品である。

小説としては青空文庫で読むことができるので参照されたい。

夢野久作 きのこ会議

 ごくごく短い短編なので、ちょっとした時間にでも読むことができる。

お手軽に楽しめる作品だと思うので、是非ご一読を。

 

あらすじは上記の作品を読んでいただければ一目瞭然なため、

特にここで紙幅を割く必要も感じられないが、

簡単に言ってしまえば、シイタケやマツタケなどの「きのこ」たちが

あたかも人間たちのように自分の種族の立場から演説をする、という話である。

そしてこの会議の主題は、「人間」とのかかわりなのだ。

シイタケは人間に栽培されることで子孫が増えることに喜びを示し、

マツタケはまだ育ち切らないうちに人間たちに採取されてしまうことに涙を流す。

そして一部の毒キノコたちが、人間の役になど立つからそんな風になるんだと笑い、

自分たちのように毒を持つべきだ! と主張する。

そこへ、キノコたちの声なんぞ聞こえない人間たちがやってきて……

という話。

 

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↑どこかの総統閣下のような出で立ちの毒キノコ。肩にツギハギのある制服が御愛嬌。

 

この長崎訓子の漫画では、人間のように服を着て建物の中で会議をしている

きのこたちの町に、あたかも異星人のように宇宙船に乗って「人間」たちが現れる。

たちの悪い侵略者――どころか単なる破壊者のように、蹂躙するだけ蹂躙して

きのこたちの町、そしてきのこたちの「地球」から飛び去るラストは印象的だ。

きのこたちは会議の場で各々の言い分を述べ立てているわけだが、

人間はそれに対して肯定も否定もせず、ただ単に「聞く耳をもたない」のだ。

非情にも思えるが、この断絶こそは厳然たる事実でもあるだろう。

きのこの星に降り立ちながら、役に立つだの立たないだの、

自らの手前勝手な尺度で好き放題する。

この作品自体が、「きのこ」を実に「人間的に」扱い・表現することで、

「きのこ」を通しても「人間的なもの」しか見えない人間への批判のまなざしを

持っているのではないだろうか。

一見すると雑に描かれているような作画だが、そのそっけなさ、

平べったい感じが、シンプルにかつ痛烈に「人間」と「きのこ」との

かかわりについて問題を投げかけているのである。

 

 

●青井秋「爪先に光路図 前編」(23-48)

3つめの作品である。ジャンルで言えばBLに該当するらしい。

とはいっても、少なくともこの前編を読む限りでは、

繊細かつ丁寧に登場人物の心情や関係を描き出している正当な恋愛漫画だという

感想を持った。

 

人は色恋沙汰でも何かと分類わけをしたがるが、

男女同士だろうと、男同士だろうと、女同士だろうと、

いい恋もあれば、忘れてしまいたくなるような恋もある。

おそらく漫画もしかりで、強引な展開で引っ張っていくような恋愛の描き方もあれば、

この作品のように、短いスパンでもさりげなく、着実に心の距離が縮まっていくさまを

描いているような作品もあるのだ。

 

あらすじ。

大学生の岩井新(いわい・あらた)は研究員助手の仕事を紹介され、

菌類研究者の室田に出会う。

野外調査での資料収集の補助をしながら、

きのこ(菌類)の研究を通して、徐々に交流を深めていく……

という筋立てである。

 

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「室田さんは寡黙な人だったが

 研究中 訥々と語ってくれる

 未知の世界の話に

 段々と心を奪われていった」(39-40)

 

岩井は菌類専攻というわけではない。

しかし、室田の研究助手を通じて未知の世界を知り魅了され、

また同時にその未知の世界を通じて、室田という人物を知り、心惹かれていく。

この類比がうまい。

 

研究というものは、自分にとって未知の、新しい別の世界へ己の身一つで

入り込んでいく活動なのだ。

初めから、見つけ出したい価値のある宝物を求めて、そこに入っていくとは限らない。

未知の世界の中での一つ一つの気づきを通して、その世界が自分にとって大切なものへとなっていくのである。

 

人と人との恋や愛にも、似通ったところがある。

「一目ぼれ」というものもおそらく世の中にはあるだろうし、

「こういうものが好き」という好みも人にはあるだろう。

だけれども、人と人との恋愛のさなかでは、

人は人を段々と好きになっていくのであり、

いつかちょっとした拍子に、「好きだ」ということに気付くものではないだろうか。

他人というのはそれだけで、誰にとっても未知の世界のひとつひとつであるのだから。

 

下の室田の台詞の一連の流れは、なかなかに興味深いものがある。

(今わかっている)世界最大の生物はなにか?という室田からの問いに、

岩井は「シロナガスクジラとかですか?」(42)と答える。

しかし何と答えは「キノコ」だと室田は言うのである。

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 「このナラタケと同じものがアメリカの山ひとつ分の菌床を持っていたそうだ

 この子実体は地中の一個の菌床の指先みたいなもんだからな

 俺たちが普段知り得る生態は その生物の生活のほんの表層でしかない

 だが勿論 見えないからといって不必要な事はひとつもない

 学問も同じだよ 博物学はもう解体されたが

 その精神まで死んだわけじゃない 百学は連環しているんだ 

 色んなものに好奇心を持つのは何よりだよ」(43)

 

この「世界最大の生物=キノコ」は有名な話であるので、興味のある方は

調べてみればすぐに情報は出てくるであろう。

 

大切なのは、人の見えている世界はほんの一部でしかなく、見えないところでも一つにつながっているということである。

学問という場は領域が決まって固定化されていて、ひたすら狭い道を進んでいくものだと思われがちかもしれないが、領域横断的な見方というものは大事で、

他の学術分野の研究が、或る別の分野の研究を新たに前進させるような視点をひらくこともある。著名な学者・研究者はいろいろな学問を修めているものだ。

 

だから、「連環」なのである。

学問・研究をして明らかにしようとする世界も、あるいは人の心も、

見えるのはとてもとても限定的で、一部分だけれども、

それでも見えないところでつながっているのである。

そして研究を通して、あるいは人との交流を通して、

自分とは違う世界を、いや、自分とは全く違うわけでもない世界を、

ほんの少しずつでも「気づく」ことができるようになっていくのだ。

 

そんなとき、人はドキドキしてしまうんじゃないだろうか。