絡新婦の爪先

いちばん書きやすいところにあった日記のようなもの。

『きのこ漫画名作選』 感想① ~「漫画はきのこである。あるいはきのこは漫画である」~

今日は、あるいは今日から、

 

 飯沢耕太郎編『きのこ漫画名作選』Pヴァイン、東京、2016.

 

の感想を書いていこうと思う。

 

この漫画本は、「きのこ」にまつわり、「きのこ」を描いた日本の「きのこ」漫画作品を集めたアンソロジーである。

 

所収作品は以下の通り。※目次参照(544-545)

つげ義春「初茸がり」(『ねじ式 異色傑作選1』)

長崎訓子夢野久作 きのこ会議」(『Ebony and Irony 短編漫画集』)

・青井秋「爪先に光路図 前編」(『爪先に光路図』)

秋山亜由子「山の幸」(『虫けら様』)

坂田靖子「キノコのベターライフ」(『坂田靖子傑作集 ピーターとピスターチ』)

松本零士「妄想の夜行列車」(『男おいどん 第1集』)

・新國みなみ「オニフスベ」(『きのこくーちか1』)

友沢ミミヨ「きのこ旅行」(『きのこ旅行』)

林田球「キノコの山は食べ盛り」(『ドロヘドロ』3巻)

吾妻ひでお「きのこの部屋」(『吾妻ひでお作品集成 夜の帳の中で』)

花輪和一「茸の精」(『朱雀門』)

・みを・まこと「キノコ♥キノコ」(『キノコ♥キノコ』)

萩尾望都「ぼくの地下室へおいで」(『ブラッドベリSF傑作選 ウは宇宙のウ』)

大庭賢哉「6:45」(『郵便配達と夜の国』)

村山慶「きのこ人間の結婚♯1」(『きのこ人間の結婚』)

白土三平「第二話 冬虫夏草の巻」(『いしみつ』)

・白河まり奈「侵略円盤キノコンガ」(『侵略円盤キノコンガ』)

ますむらひろし冬虫夏草」(『オーロラ放送局 (下)』)

 

以上。全18作品となかなかの大ボリュームである。

なので感想も少しずつ書いていこうと思う。

 

編者の飯沢によれば、「漫画はきのこである、あるいはきのこは漫画である」(2)そうだ。

本人も言っているように、なかなかに荒唐無稽である。

そこまで断言できるのか、

とつっこみたくなるような物言いではあるが、

一度この漫画集を頭から終わりまで読み終えてみると、

「……なるほど、もしかしたら漫画はきのこできのこは漫画なのかもしれない」、

というような気になってくるのだから不思議だ。 

 「きのこが本来兼ね備えているファンタジックな魔術性、発作的かつ痙攣的なユーモア、異質なものたちの「間」に在ってその両者を結びつけ、媒介する力は、漫画にも同様に備わっている。」(2)

 

と、飯沢が述べているように、どうも「きのこ」というものはそれ自身が奇妙奇天烈な存在だ。

ただ単に森や林の中に生えているだけだというのに、樹々や落ち葉などとは違って、

「きのこ」は、まるで何かの間違いであるかのようにそこにたたずんでいる。

「きのこ」だけが、自然のなかに「にょきっ」と生え出た虚構の存在みたいだ。

 

要するに目の前にあるのに「嘘くさい」んだ。

「きのこ」は。

 

完成された絵の画面の中で、後から誰かに小さく書き加えられたような不自然さ。

それでいて、そんな余計なもののくせに、絵そのものよりも見る者をひきつけやがる(こともある)。

そういう異様なものが「きのこ」だ。

「きのこ」はわざわざ戯画化しなくても、それ自体がすでに漫画的なものと言える。

翻ってみれば、漫画も、自然のなかの「きのこ」のようなものであるということだろう。

ふつうに日常の生活を送っているうえでは出会えない、

「もう一つの世界」への案内役のようなものが「きのこ」であり、漫画なのだ。

 

思ったより前置きが長くなってしまったので、それぞれの作品の感想は次回以降に回そうと思う。

今回はイントロダクションのようなものだ。

あるいは編者の前書きに関する感想だ。

あしからず。

 

なお、筆者は別に漫画やきのこに造詣が深いわけでもないし、各作品の作者についてよく知っているわけでもない。

より正確に言えば、以前読んだことのある作家もいれば、はじめて出会う作家もいる。

アンソロジーで取り上げられている作品は、完結した一つの短編である場合もあれば、

連載の中の一話に過ぎない場合もある。

ゆえにこの作品集のみで作品を読んで、すべてを評価することなどはできない。

そのため、これ以降書くのは腰の入った作品分析や考察などではなく、

単なる感想や覚え書きのたぐいであることを、あらかじめ断っておく。

 

たかが日記、されど日記。

良いか悪いかはわからないけれど、

今の自分にとって、どういう形にせよ文章を書いてみることは

大切に思えるから、仕方がない。

 

のこのこきのこにつられてこのきのがすまいとのきがこのごろいきいきいきのこる。