絡新婦の爪先

いちばん書きやすいところにあった日記のようなもの。

食虫植物と蝙蝠との出逢いの写真について

 

世界報道写真展で見た、一番心に残った写真は、

 

ウツボカズラに似た食虫植物のひと房(捕虫袋)と、一匹の翼を広げて飛ぶコウモリがフレームの中に捉えられた作品である。

 

この種のコウモリは、食虫植物の捕虫袋の中を寝床にするらしく、

この写真では今まさにコウモリが彼のベッドへと降り立とうとする、

その一瞬を写している。

 

背景は暗闇で、食虫植物と一匹のコウモリが左右で対称に配置され、まるで向き合っているかのような雰囲気だ(むろん、植物に「向き合う」ような正面があればの話だが)。

 

この写真で呈示された世界は、何といったらいいか、それだけで充足していた。

 

虚空の中で、ただ食虫植物とコウモリが向き合っている。

それだけで世界が出来上がっていた。

 

片や自らは動きはしない植物と、翼を大きく翻して飛んでいるコウモリ。

 

片や睡眠をとるために舞い降りたコウモリと、眠らない食虫植物。

 

カメラによって固定された動と静。

被写体は眠らず、そして目覚めることもない。

 

無限の虚空のなかで、異なる二者が出逢い、向き合う。

それだけで世界が出来上がってしまっているのだ。

 

その無限の虚空の何処かが、見も知らぬ誰かの手で目の前に引き出され、

いま、ここで、僕が、それを、観ている。

 

暗闇と、植物と、コウモリ。それだけで僕は充たされるようだった。

 

僕にとって良かったのは、

食虫植物が綺麗な花などではなく、

コウモリが可愛らしい小鳥などではなかったことだと思う。

 

 

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コウモリが食虫植物の捕虫袋の中を寝床にする、という説明文に、

では植物は寝床にされっぱなしなのかというと、そうではなく、

落ちてくるコウモリの糞を栄養にしているのだ、ということも書かれていた。

 

ちなみに、コウモリは捕虫袋の中の消化液では別に溶かされはしないらしい。

 

この共生の在り方も、僕にとっては憧れるものである。

 

睡眠を必要としない植物が安全な寝床をコウモリに提供し、

コウモリが不要になって排泄した糞を植物が栄養の足しにする。

 

この二種は、異なるからこそ互いを利し、また利されるのである。

 

くわえて、この二つは当然ながら互いのためにこうしたことをしているわけではない。

 

勝手に寝床にし、寝床にされ、勝手に排泄し、また勝手に栄養にしているのである。

 

結果的に互いの行動が、互いにとって利益を生んでいるに過ぎない。

 

だが、だからこそこの二種は寄り添えているのだ。

 

互いのため、相方のため、自らが相対するもう一者のため、という思考は、

「お互い」という閉じた関係の中で同語反復的な螺旋を形成する危険も含む。

そのとき、「お互い」も、お互いを構成する片割れのひとつずつも、

もはや何なのかがわからなくなってしまう。

 

なぜなら最初から、互いは互いのためにあるわけではないのだから。

 

互いのために行なうわけではないことが、結果的に互いの利になる。

 

自分にとってのそういう人と、そういう人にとっての自分が、

もし寄り添うことができたなら。

 

そんなことをぼんやりと、子供のように夢想する。