絡新婦の爪先

いちばん書きやすいところにあった日記のようなもの。

ジョロウグモ

昨日はジョロウグモがせっせと糸を紡いで巣を作っていた。

秋の空の女王。

身近でいちばん美しい蜘蛛、だと僕は思っている。

 

ジョロウグモの巣は、いわゆる平面的で円形に放射した形の網だけではなく、いろいろ特殊な部分が入り組んでいて、少し複雑なドームのような形をしている。全体像を見ると、下部が広い馬蹄形をしているそうだ。

巣を作って糸を張っている時も、単純に引っ張っていくのではなくて、時おり巣の中央に糸をひっかけながら、美しく伸びた黒い脚を巧みに操って特殊な構造体を形成していく。

一度機会があれば、ジョロウグモに限らず蜘蛛の巣作りの様子をその目で見ると好い。

せっせ、せっせと糸を引っ張る蜘蛛の様子は、殊のほか愛らしいものだ。

そしてまた、蜘蛛の巣作りは驚異的だ。

最終的に蜘蛛自身の体長の十何倍、何十倍もの大きさの構造体を作り上げるのだから。

それは空中に設えられ、しかも自らの体のうちで編み出した糸が素材となる。

「巣をつくる」ということにおいて、これほど興味深い生物はあまりいない。

 

芸術的だ、と言ってもいい。

ジョロウグモの巣なんて、一部は黄色の糸になってるから、秋の日差しがあたるとキラキラ金色に輝いて、ジョロウグモ自身の赤と黄と黒の体色と相まって、ただもう美しいの一言。

 

彼らの巣が、いろいろの形をするのも、それが何かの「あいだ」に作られることが多いからだ。木々の間、枝枝の間などにとどまらず、人間が作った柱の間、柵の間、時には木と柱の間に、または電灯やバス停の頼りない屋根のすぐ下に張っていたりする。

「あいだ」の、「糸」の芸術だ。それは「つなぐ」わけではないけれども、なにかの「あいだ」になければつくられない。空中には出現しない。

何もない空間ではないけれども、人が無用の空間としているような空き、隙間に、ほいっと網を張っているのだ。こんなに面白いことがあるだろうか、別に蜘蛛と人間はお互いに共存しているわけでも敵対しているわけでもないが、なんとなく隙をつかれているような感じがするじゃないか。

 

付け加えるべきは、僕のような不能で無能の人間からすると素晴らしいことなのだが、

これらの芸術的行為をあらゆる蜘蛛が種の才能として保持しているということだ。

(※もちろん、巣をつくるタイプの蜘蛛の話だ。ハエ取りグモタイプはハエ取りグモタイプで、その跳躍の凄まじさ、仕草の愛らしさなど素晴らしいところは多い。)

人間だって自分より何倍も大きいもの、美しいものをつくることはできる。

だがそれは大勢の人間の力や、デザイン・設計をする能力のある限られた者たちのなし得た成果だ。僕のような人間、あるいは大勢の人間が作れるものではない。

だけれども蜘蛛は、どんな蜘蛛でも、その能力を生まれ持ってくるのだ。

しかるべき成長、場所、時間、運があればどんな蜘蛛でも巣をつくる。

 

人間にはできないことだ、それが素晴らしい。

少し道を歩けば、そんな驚異の営為を、そう難しくなく目にすることができる。

それも素晴らしいことだ。

秋の日の散歩、ふと足を止めて、気に入った蜘蛛を見つめてみるのもいいだろう。

蜘蛛はあなたを待ってはいないが、いつでもそこで待っているのだから。

 

 

「価値」をさげよう

日本人の価値観、美しい心、和を以て貴しとなす規範、何よりも「努力すれば成功する」などと、無責任にも結び付けられてあたかも意味や価値を備えたかのような言葉の意味や価値を破砕しましょう。

 

企業競争の末に手に入る「新しいもの」でわれわれは幸せになったでしょうか。

新しいヴァージョンのスマートフォンは、互換性も企業サポートもない無用のものを、凄まじい速さで過去に積み上げていったにすぎないのではないですか。

自由競争による経済成長、聞こえのいい言葉を添えようとも実情はそんなものです。

それを進歩というのですか、革新というのですか、成長というのですか。

 

そんなことのために自己の幸せを犠牲にすることも、ましてや過労死してしまうことも、非情に滑稽で哀れなものですが、残念なことに決して珍しくない世の中に……

否、決して珍しくないのだということが容易に分かる世の中になってきてしまいました。

もう誰にも人生における価値も意味も幸せもわからなくなっているのです。

だから生きる糧を得るためという「大義名分」のもとに自らの人生を費やし、

「努力と成功」を結びつけた安易な救いの道に希望をかけ、働きすぎているのです。

あるいは、十全に働いているわけでもないのに、働かせすぎているのです。

ほんとのところは働いているかもよく分かっていないのに、

働いているということにして、それを「信用」することで、

かろうじて「社会」、「社会人」、はては「日本社会」というものを

誰に言い訳するためなのか、取り繕っているのです。

 

そして、その取り急ぎの価値と意味を保つために、「若者」や「真面目な人」がごくごく真剣に張りぼての社会に殉じ、大真面目に社会的価値から外れる人びとを排斥し、他の価値を引き下げることであたかも自らの属する価値が上位のものであるかのように演出することで、その価値体系を強固にしていくのです。

「努力と成功」が尊ばれ、「怠惰と失敗」が忌避されるのはそのためです。

そもそもそんな言葉に容易に還元されてしまうほど、人の行いというのは薄っぺらくはないのですけれど。

 

この価値は非情に強固に見えます。

誰もが共有する前提で、見上げるほどに大きくて、人一人が立ち向かっても打ち砕かれるような気がしてきます。

でも本当はこの世界に「誰もが共有する前提」などはありませんし、目で見ることのできる「価値」も、大きさを比べ得る「意味」も存在しはしないのです。

立ち向かっても人を打ち砕くのは価値ではなく、価値を崩されては困ると感じているある人間なのです。そういう人間が、「あることにしている」にすぎないのです。

むしろこの価値に則った、すなわち価値基準で判断可能な行いをし続けていくことが、この価値をより強固なものにしていくのです。

 

「そういうものだからしかたない」と口にはしますが、「そういうことになっているからしかたないということしかできない」が正しいのではないでしょうか。おそらく言ってる方も気づいているとは思いますが。

 

そうまでして実際のところ共有している嘘を必死になって守ってきた理由は、ひとえに共働することで人間として生きていくためでした。人間として生きていくために、いくらかの人間を死に至らしめたり、不遇を押し付けてきたのです。

そればかりではなく、不安の人々を価値の中に組みこみ、排斥される人ばかりでなく、

その価値に必死でしがみつく善良な人々をも少しずつ蝕んでいったのです。

 

努力すれば成功する。

身を粉にすれば報いがある。

働いて夢をかなえる。

 

いろいろの景気のいい言葉が使われました。

それは価値が価値それ自体を強固にするための価値による価値づけでしかないのに、です。価値に奉仕する人の行いを価値が価値づけるのです。

人は幸せになるのではなく、価値が人の幸せを定義づけるのです。

だから、価値のために奉仕した人は価値と一体となって、価値のために生き、

価値がなくては生きれはしないおのれのために上の言葉を吐くことになります。

「価値」はほんとうはありはしないのに、です。

 

それでも、人を生かすための価値ならよかった。

しかし、もともと人々が取り繕ってきたほころびが、

亀裂がだんだんと見え始めてきたのです。思っていたよりも多くの人々に。

そして同時に、それを必死になって取り繕う人間の数すら足りなくなってきてしまいました。

もう価値を保つためには、さらに人を働かせるしかありません。

帰結は、誰もが疲労し、挙句に過労死する社会です。

そうなってすら、それが生きる価値だと信じてその価値に殉じる限りは、

価値は生き延び続けることになります。人を死に体にすることで。

疲れた人は、いよいよこの価値のあたえる景気のいい言葉にすがるしかないように思えてきてしまいます。その先にはなにもありはしないのに、です。

 

この価値に「伝統」などはありません。

この価値が決める「過去の積み重ね」と「未来への展望」と奉仕する現在しかありません。

それに付き合うのはもうやめてもいいのではないでしょうか。

生かすためのものが殺しはじめたのです、本末転倒でしょう。

価値がなくても人は生きていけます。

価値に付き合って死ぬことはありません。

 

何か新しいものを見つけるために、今の価値は壊れるがままにしてしまいましょう。

 

「努力すれば成功する」という耳に聞こえのいい言葉を信じるふりをするのはやめましょう。いまは「努力すれば死んでしまう」社会です。

 

「艱難辛苦を経れば幸せが待っている」などと思うのは、人を喜ばす物語の筋書きに毒されすぎた安易な考え方にすぎません。本当の「艱難辛苦を経て」しまえばたいていの人は死ぬか大きく傷ついてしまいます。当たり前のことですが。

 

なんのための「粉骨砕身」でしょうか? 過剰な表現のために本当に「身を削り」、会社に尽くして、ただその会社、社会の決めた価値のもたらす恵沢を享受する自分ではないもののために…幸せにも不幸せにもなり得、いろいろの喜怒哀楽を引き受けることのできるかけがえのない人生を手放すなんて、こんなに滑稽で悲しいことがあるでしょうか。

 

立ち止まってもいいんです。

ボロボロの価値が決めた早い遅いに気を取られることのほうが、

もっと大いなる時間の流れから外れてしまった、

本当の意味での「時間の無駄」なのかもしれないじゃありませんか。

 

待つことも大事なことですよ。

 

絡新婦

『きのこ漫画名作選』 感想② ~「キノコってちょっとドキドキするけど」~

 

tokkannnonikki.hatenablog.com

 

これの続きである。

今回感想を書くラインナップは以下の三作品。()内はアンソロ収録前の出典。

 

つげ義春「初茸がり」(『ねじ式 異色傑作選1』)

長崎訓子夢野久作 きのこ会議」(『Ebony and Irony 短編漫画集』)

・青井秋「爪先に光路図 前編」(『爪先に光路図』)

 

まぁこれからも三つずつのんびりと書いていこうと思う。

書くのは大事なことだから。

 

 

つげ義春「初茸がり」(3-10)

 

ねじ式』で有名なつげ義春の作品だ。

なんとかクラゲに刺されて腕を抑えているシーンの絵は、

きっと誰でも見たことがあるに違いない。※メメクラゲ

 

この作品は、「きのこの出てこないきのこ漫画」である。

 

雨の降る夕方、山の麓の日本家屋で、

優しそうなおじいちゃんが孫の正太に

「あしたは初茸がりに行こう」と声をかける。

正太は楽しみで楽しみでワクワクするあまり眠れず、

大きな古時計の時を刻む音が気になって仕方がない。

そうして夜が更けていき…………

朝。おじいちゃんが気持ちよく目覚めると、正太の姿がない。

布団をのけても、名前を呼んでも正太がいない。

正太は大きな古時計の中に入り、振り子をその小さな体で止めたまま、

「グー、グー」と寝息を立てて眠っているのであった。

 

と、いうのがあらすじである。

要するに、この物語は「初茸がり」に行く前夜の話であり、

きのこが出てこない、きのこが「これから」出てくる、

「きのこ前」の漫画なのである。

きのこは直接描かれていないが、これほど「きのこ漫画集」の冒頭を飾るのに

ふさわしい作品は他にないだろう。

 

誰しも子供のころ、明日が楽しみでどうにも眠れない経験をしたことがあるだろう。

もしかしたら、大人になった今も、不安のために眠れない夜を過ごすことも

あるかもしれないが……

それはともかく、初茸がりに行くことを楽しみにして、うれしくて眠れない正太は、

まるでこれから多くのきのこ漫画を読むことを心待ちにしている我々読者のようだ。

しかし明日のために眠ることを、現実の時を休みなく刻み伝える時計が邪魔してくる。

ゆっくりと眠るためには、この時計を止めなくてはいけないのだ。

正太は自ら時計の中に入って、際限なく聞こえてくるような時計の音を止め、

無事に夢の世界へと入っていった。

そうしたらもう、「オトナ」であるおじいちゃんに、正太を見つけることはできない。

正太は目を閉じて眠りながら、初茸を採る楽しい夢でも見ているのだろうか。

もはや時計の音は鳴り止んで、正太のいびきが響くだけだ。

 

きのこ漫画を読むあなたも私も、正太のように、現実の時計を止めて、

ちょっとしたわくわくとともに、夢のようなきのこ漫画の世界に入っていきませんか?

と誘ってきているみたいに思えてはこないだろうか。

 

ひょっとすると、そういう世界の中でしか「きのこ」とは出会えないのかもしれない。

 

 

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(7ページ。雨がやんだ夜遅くの正太)

 

もう今の時代、ほとんどの日本人は住んでいないのでは、と思えるタイプの日本家屋。

ぼろくて、暗くて、じめじめしているけれど、なぜだか落ち着く空間だ。

ひどく心の片隅のノスタルジィをつついてくる。

不思議だね、そういうところに暮らしていたわけでもないのに……。

ともかく、そういう雰囲気も良く描かれている作品だと思う。

 

 

長崎訓子夢野久作 きのこ会議」(12-20)

こちらは『ドグラ・マグラ』で有名な夢野久作の『きのこ会議』の漫画化作品である。

小説としては青空文庫で読むことができるので参照されたい。

夢野久作 きのこ会議

 ごくごく短い短編なので、ちょっとした時間にでも読むことができる。

お手軽に楽しめる作品だと思うので、是非ご一読を。

 

あらすじは上記の作品を読んでいただければ一目瞭然なため、

特にここで紙幅を割く必要も感じられないが、

簡単に言ってしまえば、シイタケやマツタケなどの「きのこ」たちが

あたかも人間たちのように自分の種族の立場から演説をする、という話である。

そしてこの会議の主題は、「人間」とのかかわりなのだ。

シイタケは人間に栽培されることで子孫が増えることに喜びを示し、

マツタケはまだ育ち切らないうちに人間たちに採取されてしまうことに涙を流す。

そして一部の毒キノコたちが、人間の役になど立つからそんな風になるんだと笑い、

自分たちのように毒を持つべきだ! と主張する。

そこへ、キノコたちの声なんぞ聞こえない人間たちがやってきて……

という話。

 

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↑どこかの総統閣下のような出で立ちの毒キノコ。肩にツギハギのある制服が御愛嬌。

 

この長崎訓子の漫画では、人間のように服を着て建物の中で会議をしている

きのこたちの町に、あたかも異星人のように宇宙船に乗って「人間」たちが現れる。

たちの悪い侵略者――どころか単なる破壊者のように、蹂躙するだけ蹂躙して

きのこたちの町、そしてきのこたちの「地球」から飛び去るラストは印象的だ。

きのこたちは会議の場で各々の言い分を述べ立てているわけだが、

人間はそれに対して肯定も否定もせず、ただ単に「聞く耳をもたない」のだ。

非情にも思えるが、この断絶こそは厳然たる事実でもあるだろう。

きのこの星に降り立ちながら、役に立つだの立たないだの、

自らの手前勝手な尺度で好き放題する。

この作品自体が、「きのこ」を実に「人間的に」扱い・表現することで、

「きのこ」を通しても「人間的なもの」しか見えない人間への批判のまなざしを

持っているのではないだろうか。

一見すると雑に描かれているような作画だが、そのそっけなさ、

平べったい感じが、シンプルにかつ痛烈に「人間」と「きのこ」との

かかわりについて問題を投げかけているのである。

 

 

●青井秋「爪先に光路図 前編」(23-48)

3つめの作品である。ジャンルで言えばBLに該当するらしい。

とはいっても、少なくともこの前編を読む限りでは、

繊細かつ丁寧に登場人物の心情や関係を描き出している正当な恋愛漫画だという

感想を持った。

 

人は色恋沙汰でも何かと分類わけをしたがるが、

男女同士だろうと、男同士だろうと、女同士だろうと、

いい恋もあれば、忘れてしまいたくなるような恋もある。

おそらく漫画もしかりで、強引な展開で引っ張っていくような恋愛の描き方もあれば、

この作品のように、短いスパンでもさりげなく、着実に心の距離が縮まっていくさまを

描いているような作品もあるのだ。

 

あらすじ。

大学生の岩井新(いわい・あらた)は研究員助手の仕事を紹介され、

菌類研究者の室田に出会う。

野外調査での資料収集の補助をしながら、

きのこ(菌類)の研究を通して、徐々に交流を深めていく……

という筋立てである。

 

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「室田さんは寡黙な人だったが

 研究中 訥々と語ってくれる

 未知の世界の話に

 段々と心を奪われていった」(39-40)

 

岩井は菌類専攻というわけではない。

しかし、室田の研究助手を通じて未知の世界を知り魅了され、

また同時にその未知の世界を通じて、室田という人物を知り、心惹かれていく。

この類比がうまい。

 

研究というものは、自分にとって未知の、新しい別の世界へ己の身一つで

入り込んでいく活動なのだ。

初めから、見つけ出したい価値のある宝物を求めて、そこに入っていくとは限らない。

未知の世界の中での一つ一つの気づきを通して、その世界が自分にとって大切なものへとなっていくのである。

 

人と人との恋や愛にも、似通ったところがある。

「一目ぼれ」というものもおそらく世の中にはあるだろうし、

「こういうものが好き」という好みも人にはあるだろう。

だけれども、人と人との恋愛のさなかでは、

人は人を段々と好きになっていくのであり、

いつかちょっとした拍子に、「好きだ」ということに気付くものではないだろうか。

他人というのはそれだけで、誰にとっても未知の世界のひとつひとつであるのだから。

 

下の室田の台詞の一連の流れは、なかなかに興味深いものがある。

(今わかっている)世界最大の生物はなにか?という室田からの問いに、

岩井は「シロナガスクジラとかですか?」(42)と答える。

しかし何と答えは「キノコ」だと室田は言うのである。

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 「このナラタケと同じものがアメリカの山ひとつ分の菌床を持っていたそうだ

 この子実体は地中の一個の菌床の指先みたいなもんだからな

 俺たちが普段知り得る生態は その生物の生活のほんの表層でしかない

 だが勿論 見えないからといって不必要な事はひとつもない

 学問も同じだよ 博物学はもう解体されたが

 その精神まで死んだわけじゃない 百学は連環しているんだ 

 色んなものに好奇心を持つのは何よりだよ」(43)

 

この「世界最大の生物=キノコ」は有名な話であるので、興味のある方は

調べてみればすぐに情報は出てくるであろう。

 

大切なのは、人の見えている世界はほんの一部でしかなく、見えないところでも一つにつながっているということである。

学問という場は領域が決まって固定化されていて、ひたすら狭い道を進んでいくものだと思われがちかもしれないが、領域横断的な見方というものは大事で、

他の学術分野の研究が、或る別の分野の研究を新たに前進させるような視点をひらくこともある。著名な学者・研究者はいろいろな学問を修めているものだ。

 

だから、「連環」なのである。

学問・研究をして明らかにしようとする世界も、あるいは人の心も、

見えるのはとてもとても限定的で、一部分だけれども、

それでも見えないところでつながっているのである。

そして研究を通して、あるいは人との交流を通して、

自分とは違う世界を、いや、自分とは全く違うわけでもない世界を、

ほんの少しずつでも「気づく」ことができるようになっていくのだ。

 

そんなとき、人はドキドキしてしまうんじゃないだろうか。

 

 

『きのこ漫画名作選』 感想① ~「漫画はきのこである。あるいはきのこは漫画である」~

今日は、あるいは今日から、

 

 飯沢耕太郎編『きのこ漫画名作選』Pヴァイン、東京、2016.

 

の感想を書いていこうと思う。

 

この漫画本は、「きのこ」にまつわり、「きのこ」を描いた日本の「きのこ」漫画作品を集めたアンソロジーである。

 

所収作品は以下の通り。※目次参照(544-545)

つげ義春「初茸がり」(『ねじ式 異色傑作選1』)

長崎訓子夢野久作 きのこ会議」(『Ebony and Irony 短編漫画集』)

・青井秋「爪先に光路図 前編」(『爪先に光路図』)

秋山亜由子「山の幸」(『虫けら様』)

坂田靖子「キノコのベターライフ」(『坂田靖子傑作集 ピーターとピスターチ』)

松本零士「妄想の夜行列車」(『男おいどん 第1集』)

・新國みなみ「オニフスベ」(『きのこくーちか1』)

友沢ミミヨ「きのこ旅行」(『きのこ旅行』)

林田球「キノコの山は食べ盛り」(『ドロヘドロ』3巻)

吾妻ひでお「きのこの部屋」(『吾妻ひでお作品集成 夜の帳の中で』)

花輪和一「茸の精」(『朱雀門』)

・みを・まこと「キノコ♥キノコ」(『キノコ♥キノコ』)

萩尾望都「ぼくの地下室へおいで」(『ブラッドベリSF傑作選 ウは宇宙のウ』)

大庭賢哉「6:45」(『郵便配達と夜の国』)

村山慶「きのこ人間の結婚♯1」(『きのこ人間の結婚』)

白土三平「第二話 冬虫夏草の巻」(『いしみつ』)

・白河まり奈「侵略円盤キノコンガ」(『侵略円盤キノコンガ』)

ますむらひろし冬虫夏草」(『オーロラ放送局 (下)』)

 

以上。全18作品となかなかの大ボリュームである。

なので感想も少しずつ書いていこうと思う。

 

編者の飯沢によれば、「漫画はきのこである、あるいはきのこは漫画である」(2)そうだ。

本人も言っているように、なかなかに荒唐無稽である。

そこまで断言できるのか、

とつっこみたくなるような物言いではあるが、

一度この漫画集を頭から終わりまで読み終えてみると、

「……なるほど、もしかしたら漫画はきのこできのこは漫画なのかもしれない」、

というような気になってくるのだから不思議だ。 

 「きのこが本来兼ね備えているファンタジックな魔術性、発作的かつ痙攣的なユーモア、異質なものたちの「間」に在ってその両者を結びつけ、媒介する力は、漫画にも同様に備わっている。」(2)

 

と、飯沢が述べているように、どうも「きのこ」というものはそれ自身が奇妙奇天烈な存在だ。

ただ単に森や林の中に生えているだけだというのに、樹々や落ち葉などとは違って、

「きのこ」は、まるで何かの間違いであるかのようにそこにたたずんでいる。

「きのこ」だけが、自然のなかに「にょきっ」と生え出た虚構の存在みたいだ。

 

要するに目の前にあるのに「嘘くさい」んだ。

「きのこ」は。

 

完成された絵の画面の中で、後から誰かに小さく書き加えられたような不自然さ。

それでいて、そんな余計なもののくせに、絵そのものよりも見る者をひきつけやがる(こともある)。

そういう異様なものが「きのこ」だ。

「きのこ」はわざわざ戯画化しなくても、それ自体がすでに漫画的なものと言える。

翻ってみれば、漫画も、自然のなかの「きのこ」のようなものであるということだろう。

ふつうに日常の生活を送っているうえでは出会えない、

「もう一つの世界」への案内役のようなものが「きのこ」であり、漫画なのだ。

 

思ったより前置きが長くなってしまったので、それぞれの作品の感想は次回以降に回そうと思う。

今回はイントロダクションのようなものだ。

あるいは編者の前書きに関する感想だ。

あしからず。

 

なお、筆者は別に漫画やきのこに造詣が深いわけでもないし、各作品の作者についてよく知っているわけでもない。

より正確に言えば、以前読んだことのある作家もいれば、はじめて出会う作家もいる。

アンソロジーで取り上げられている作品は、完結した一つの短編である場合もあれば、

連載の中の一話に過ぎない場合もある。

ゆえにこの作品集のみで作品を読んで、すべてを評価することなどはできない。

そのため、これ以降書くのは腰の入った作品分析や考察などではなく、

単なる感想や覚え書きのたぐいであることを、あらかじめ断っておく。

 

たかが日記、されど日記。

良いか悪いかはわからないけれど、

今の自分にとって、どういう形にせよ文章を書いてみることは

大切に思えるから、仕方がない。

 

のこのこきのこにつられてこのきのがすまいとのきがこのごろいきいきいきのこる。

日記を書く暇もない

心にゆとりがほしい。

 

ゆとりという言葉になんとなく「悪」や「恥」や「劣」の属性が附与された、

よーに思える現代。

自分だけはこのケガレを身に負うてははなるまいぞ、

と悲しくも決意してしまった人びとは焦り、

そのほかには特にワケもなく焦り、焦るために焦る……。

 

そーいう怠けかたをしているんだな。

自分たちは忙しいんだぞ、ゆとりなんかないんだぞ、こんだけ人生頑張ってるんだぞ、

ってことを言い訳にしたり、自分に言い聞かせたり、飽き足らず他人にアピールして、

忙しいというより忙しがってるんだろうか。

 

なんてうつろな言葉なんだろう。

白内障

白内障と診断されました。

さしあたっては、左目です。

びっくりだ。まだ二十代ですよ、こちとら。

 

なんか世界が霧がかっているなー、全体が見えにくいなーと思い、

耐えきれず眼科を受診したらば、案の定。

ネットで調べて、もしかしたら、そうなのか……?

という予感はしていたが、悪いことに当ってしまった。

 

白内障は加齢により進行するのが主らしいが、

僕の場合はおそらくアトピー性皮膚炎持ちの合併症らしい。

地味に生きづらいなアトピー

 

白内障は、世界の失明原因としてはいまだにTOPらしいが、

日本では手術すれば簡単に治る……。

それが救いではあるけれども。

でも水晶体の中に新しい眼内レンズをいれるものらしいから、

ピント調節機能がなくなって、端的に言うと老眼みたくなるらしい。

 

20代で老眼かぁ……っておもう。

深刻ではないかもしれないけど、少しばかりダメージを食らった。

一般的には加齢でなってしまう症例、自分も年を取ってなったのなら、

「まぁそういうものみたいだからね」と納得しやすいかもしれないが、

若いうちに、歳くってからなるような病気にかかるというのは……

それなりに心を整理しにくいものだ。

 

処方された進行を遅らせる点眼薬に、

 

「老人性白内障治療点眼剤」

 

とラベルされていることに、一周まわって笑いがこみ上げてくる。

 

自分の両親よりも先に、息子である自分が白内障になるなんて…

と、思わなくもない。

別に両親が歳くってから白内障になるとは限らないわけだけれども。

 

そこはかとなく、自分が出来損ないであるかのように思えてしまうのだ。

いや、世の白内障はじめなんらかの病気などの人々が出来損ないだ、

と言ってるわけではない。

ただ、自分が、そう感じてしまう、ということだ。

白内障というのも、自分がそう感じる複数要因のひとつにすぎない。

さっきも言ったように、今の自分が罹患することに際して、

適当な理由づけなり根拠づけなり意味づけなりで処理することが、

思ったほど簡単ではなかった、というだけの話だ。

 

さらに言えば、目が見えにくくなるというのは、やはりと言おうか、

あまり気持ちのいいものじゃない。どころかかなり不快だ。

目をあけて物を見ようというときに、たえずそれを感じさせられるのだから。

人間が何かをしようってときに目を使わない場面なんて、ほとんどないからな。

それこそただ音楽に耳を傾けるときや、眠りにつくときでもなければ、

継続的に目を閉じることはそうそうないと思う。

 

白内障の場合は、少なくとも自分の今の進行具合において、であるが、

まったく見えないのじゃなくて、初めに書いたように世界がぼやける感じ。

目のまえに絶えずすりガラスを置かれているような見え方をする。

なんとも居心地が悪いものだ。

 

裏を返せば、手術後はそのような靄が取り払われて、

「世界がクリアーになった」という声もあるそうだから、

その時を待ち、今はこの見えにくい目で見えにくい世界を見ることを

楽しんでみた方がよいのかもしれない。

 

しばし進行具合の様子を見て、折を見て手術することになるだろう。

だが、しかし、そうなんだけれども、不安はある。

 

目の手術めっちゃ怖い。

 

え?麻酔かけるとはいえ、眼球切り開くって何?レンズ入れ替えるって何?

と、平静を保つことかなわず、動揺を隠せない「このザマ」である。

もともと自分は近眼であるが、普段から度の強い眼鏡を着用していて、

コンタクトレンズが怖くて使えないタイプの人間なものでして。

…もうそれ以上は殊更に付け加える必要もないだろう。

手術の成功を自分で祈るしかない。

 

 

 

涙が零れ落ちるのは、目薬を差しているから。

目から鱗の若年白内障

目にものみせて、いただきたい。

 

 

今日の自己満足

月がきれいですね。

あなたの顔よりは。

 

今日は自己満足につながる行いをした。

寄付。

 

恵まれない子供たちに向けた寄付。

アジアの子供たちに向けて。

フィリピン人といった女が声をかけてきた。

 

署名をして寄付をくださいと言われた。

署名をして寄付をした。

千円ぽっち。

たかが千円、されど千円。

 

夜中の駅前。

あぁ、きっと、たぶん、ほんとうに恵まれない子供たちに

いくわけではないんだろーなーと、うすうす思っていながら、

それでも千円あげました。

ぼくも、別に裕福というわけではないからね。

金額の多寡についてはさして意味はないんだ。

 

でも、この千円で、気持ちよくなれるんだもの。

ただ金を出すだけで、いいことをした気分になれるんだもの。

なんの責任も負わず、汗も流さず、お金が何にどうやって使われるのかも

なーーーんにも考えずにすむんだもの。

寄付ってそんなものでしょ。

 

で、今日は気分が良かったので、やっちゃった。

やってみて、自分のやってることが、あーこれは自己満足だ、

このお金はこの女がただ日々の暮らしのために充てるのかもしれないし、

カタギがかかわってはいけないような使い道をされるのかもしれないし、

かえって恵まれない子供たちがいつまでも恵まれなくなってしまうかもしれないのだとしても……

 

やってみたらこーだ。

だめだこりゃ。

はっきり言って、気持ちいいんだよなぁ。

否定できないわ。そうしようがないわ。

癖になったらまずい類のやつだわこれ。

 

わかっちゃいるけどやめられないんだろー。

 

いい経験になった。

 

自重のたいせつさをしる。

 

 

さいご、彼女と別れた時に告げられた ”Bye-bye” が、

耳の裏に妙に張り付いている。